2013年12月5日木曜日

称名廊下











 


我が国、最後の地理的空白部、称名廊下。

立山から流れ落ちる膨大な雪解け水は、側壁200mにして、幅数メートルの壮絶なゴルジュを通過し、350m、日本最大の瀑布、称名滝へ落ちていく。



自然が作りし至高の芸術作品。生命をかけた究極の遡行、冒険の真髄が味わえる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨年、称名滝最下段を単独で登った私は、その2日後に最高の相棒である藤巻氏と共に、全4段を登った。その時、称名滝の落口から見えるこの全長2kmの壮絶な直線廊下に心を奪われた。美しかった。
 
その冬、世界的なアルパインクライマーの佐藤氏の情熱に引きずられ、「人類」という制限をもつ身では、もはや絶望的とも思えた称名滝の冬季登攀を成功させることができた。雪と氷に覆われた称名滝の落口に再び立ち、氷雪の廊下を目に焼き付けた。凍った200mの側壁には無数の氷柱が垂れ下がり、その下を、見ているだけで息苦しくなるような、青白く、深い水が流れていた。あらゆる生命を拒む、無機質で、冷たく、重い、そんな水の流れだった。
 
そしてこの秋、藤巻氏と二度に渡り、この称名の内院に潜り込むことになる。憧れであり、恐怖そのものであったこの空間についに入ることができたのだ。ほんの触りだけだが、どれほど、この時を妄想しただろうか。
 
今、自分は称名廊下にいる。その幸福を噛み締めた。
 
 
 

2013年12月4日水曜日

台湾恰堪溪



ついに来てしまった。天高くそびえ上がる側壁を両岸に有し、膨大な水は幾重もの滝を流れ落ちる。その圧倒的な光景に、魂が震えているのが分かる。はたして俺たちに、人類に、ここが通行できるのだろうか・・・



恐怖と好奇心がせめぎ合う。


パイオニアワークは終わらない。





あとで

2013年12月3日火曜日

赤沢岳西尾根






「ぁあああああああああああああ!!」

怒りとも驚きともとれる叫びが、山を駆け抜ける。
いったい何時になったらこの地獄から解放されるのだろうか。

数週間前、3ヶ月間の極北遠征と新妻の出産を直前に控えた探検家で作家の角幡氏から、北アルプスでのんびり雪稜でもやらない?と連絡があった。冬のシーズン始めに、簡単な雪山歩き。大いに歓迎だ。二つ返事で引き受けた。そう、これが地獄への始まりだったのだ。

「赤沢岳西尾根」

これを知っているという人は相当な好き者だ。登った僕自身、これまでその存在を知らなかった。あらかじめ言っておくと、この尾根を登ったという事に、記録的な価値はそれほどない。特別、難しい尾根という訳でもないし、全く人が入らない空白地かと言われればそうでもない。かといって渋滞ができるような場所でもない。かつては正月山行などに使われたらしいが、冬季に関電トンネルが閉鎖された今、このアプローチの悪い雪稜に登ろうなどという人は「酔狂な人」扱いされてしまうだろう。

「まっ、二泊三日もあれば余裕でしょう。」

と、舐めきった態度で、昼前に扇沢駅についた。松本から扇沢まで、車から見上げる山にはどれも雪が少ない。雪稜をするのには、ちょっと雪が少なすぎて楽しめないのでは?という不安が互いの頭によぎる。「まっ!向こうは凄いって!だって初冬とはいえ、黒部だぜ!」と、根拠のない空元気を振り回した。

駅で登山道具をザックに詰め直していると、周囲から視線を感じる。なんと、女の子が何人か僕らの写メを撮っているではないか。うーん、さすが雑誌にテレビと露出度の高い有名探検家、人気だなぁと、隣の角幡氏に嫉妬心を燃やそうとしたが、次の瞬間、女の子達が聞きなれない言葉で話し出した。「~アルよ~!」あ、この子達は中国人観光客なのね。他のチラ見というにはストレート過ぎる視線もそういうことか。ロープやらアックスやらをガチャガチャさせてる僕らが物珍しくて見たり撮ったりしていただけのようだ。撮るなら一言声をかけんかい、と言いたいところだが、若い女の子が僕らの写真をフェイスブックに上げるのかと思うと、悪い気はしないね。

そうこうしていると、トロリーバスの発車の時刻だ。中国人に混じり、バスに乗り込む。あっという間に黒部ダムについた。冬は数日を要して山を超えなければ着けない場所に、わずか15分でこれる。いろいろいわれはあるが、アルペンルートはやはり便利である。

積雪具合はどうかや?という不安をよそに、ダム駅から外に出ると、一面の雪景色がボクらを出迎えてくれた。これぞまさにトンネルを抜けるとそこは雪国。完全な冬山じゃん!これは思ったよりも楽しめそう、というより、予報とは裏腹にどんより空からしんしんと降り積もり続ける雪に、楽しむどころか苦しめられるんちゃうか!?と、さっきまでとは真逆の不安が頭をよぎった。

尾根の取り付きまでは、地図ではすぐのはずだが、どうにも雪が深すぎる。駅から出て十数メートルでワカン(カンジキ)を付けた。交代でラッセル(雪かき歩き)をしながら、「ここかなぁ?」と赤沢西尾根の取り付きらしき場所につく。 

赤沢西尾根の末端はどこも岩壁になっており、一番傾斜のゆるそうなところからでも、すぐにロープを出すことになる。久々に握るアックス。凍った土や草にアックスを叩きつけ、登っていく。海外の高峰の一面のブルーアイスを登るのも爽快だが、こういう日本的な凍った土壁に触ると、「やっぱり我が家が一番!」と、夏は泥や草だらけのただの崖であろうこの場所に愛すら感じる。 とはいえ、雪の降り始めのこの時期、泥の氷結は甘く、のっぺりした岩にうっすら雪がのっていたりし、その登攀は見た目の地味さに反して恐ろしいものとなる。

山屋にあるまじき午後出発が効き、あっという間に空が暗くなってくる。出発地点からほとんど高度は稼いでないけど、今日は最初から泊まれそうないい場所があればそこまでの行程のつもりだったし、「いいよね~?」と、樹林のわずかに平な場所を見つけ、テントをはった。予報ではそんなに降るはずではなかったが、雪はどんどん強くなっていた。 

角幡氏のテントは思った以上に年季が入っている。ポールは曲がってるし、異常にきついポールの刺し口、設営に時間がかかる。テントの生地は古びたブルーシートのようで、今時ホームセンターの格安テントでももっとマシな生地を使っている。当然のごとく、内側はカビがビッシリである。おまけにすごく狭い。苦しい体制でテントないで靴を脱ごうとすると、寒さと水分不足も手伝って、腹筋が吊って絶句する。「腰イテぇなぁ。」とお互いぶつぶつ言いながら、湯を沸かしメシを喰らう。 

「酒、忘れたし、メシくっちゃうとやることないなぁ。」角幡氏はおもむろに携帯を取り出し、「おっ、電波あるじゃん。」と、身重の愛妻に電話をかけた。その第一声がなかなか衝撃的な言葉だった。 

「あ、もしもし、破水した?」 






あとで

2013年12月2日月曜日

海川不動川



「純度100%、混じりっけなしのゴルジュ。」
「この空間を知らずして死んでいく人が可哀想。」
「あれ、いつの間にか火星にいるんだけど、地形図あってる?」

神が作りし自然の造形美に賞賛の声が絶えない。

日本海ゴルジュストリート(このネーミングセンス)の中核、不動川ゴルジュを遡行してきた。昨年は天候不順で見送り続け、今年はついに我慢ならず、台風直撃の中の遡行と相成った。

不動川の魅力は、ゴルジュの造形美に加え、他の異次元ゴルジュ達と違い、凄まじい渓相ながらに水流沿いでもギリギリ突破できるという事が上げられる。ショルダー、フック、ボルト、ネイリング、ジャンプ、泳ぎ、爆水ハードフリー。ゴルジュ突破における数々のテクニックがここで試されることになるだろう。

手垢のついたゴルジュと侮ることなかれ、侵食を受けやすい柔らかい土壁は、激流によって、その渓相は日々、変化、進化させ遡行者の魂を揺さぶってくれるに違いない。ここを40年前に見出した、初遡行者のセンスと度胸、その力量は計り知れない。ボルト連打と揶揄されるが、情報皆無の暗黒空間において、当時の貧弱な装備で冷水に首まで浸かり、滝の爆風に耐えながら、手打ちで打つボルトがいかに苦しいものだったか想像に難くない。その後、フリーだとか、ノンボルトだとか威張ってみたとて、それは所詮、おまけのようなものに過ぎない。

不動川の遡行とは、自然の造形美、先人の遺産を巡る最上級の観光地であり、ゴルジュテクニックを駆使する事により奇跡的に繋がるラインに喜び震える、神が作りし究極の遊技場ともいえる。

下部、上部ゴルジュをこなし、左俣大滝下で目覚めた三日目、台風の影響で、豪雨大増水となる。周囲の大スラブ岩壁にはハワイブルーホールを思い起こさせる、百メートルオーバーの大滝が無数に出現した。沢筋は当然不可。丸一日の激烈な藪こぎののち、陸の孤島とかした海谷高知手前でのビバーク。翌朝、まだ濁流おさまらぬ海川をスクラム渡渉、巨岩を駆け下りてのジャンピング飛び石、前方の垂壁ガバへの激流飛び越え前方方向ランジ。どれもギリギリで失敗すれば日本海まで一直線だ。

生存圏である三峡パークにたどり着き、犬の散歩に来ていた地元のおじさんの軽トラに乗せてもらった。優しい陽光と、軽トラの荷台に注ぐ風、田舎の田園風景、冒険の終わりを告げるそれらは、どれもとびっきり優しくて、心の中に暖かいものが溢れんばかりに注がれた。

ゴルジュ突破、やっぱり最高だ。








不動川の中心、100以上はあろう滝の中、最も登攀困難な滝の裏、幾千幾億の時をこえ、このアンモナイトは今もどうどうと鎮座している。